想像力から生まれた日本初の“安全靴” はヒガシ東京のモノづくりのDNAー「青木産業」@日本堤

chiho takita

14.02.28

いまやインターネットでなんでも検索できる時代。何かを知りたいと思ったときに情報を収集することは、さほど難しいことではありません。でも、インターネットや雑誌などの情報がまったくない時代に、“人の安全を守る”ものを作り出さなければならなかったら? ヒトは“ものすごい想像力”を働かせて、それを生み出そうとするのでしょう。

それを教えてくれるのが本日ご紹介する「青木産業」さん。実はココ、日本初の「安全靴」発祥の会社なのです。

あしたのジョーで知られる、山谷である日本堤に青木産業はある。写真はいろは会商店街

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古くから、さまざまな職人が集まるモノづくりの街として知られている「ヒガシ東京」。浅草界隈も、革製品や金細工、ガラス工芸など、様々な職人が集まっています。

今回の舞台は、「あしたのジョー」のふるさととして知られる、浅草・日本堤にある日本初の安全靴メーカー。戦後間もない昭和26年創業の老舗です。そもそも安全靴がどういうモノなのかから、お話したほうがいいかもしれませんね。

花川戸で草履屋を営んでいた先代が“安全靴”を開発

建物の工事現場や工場などで働いていると、重い機械や部品などを扱うため、それらが万が一落下してきたり、針などを踏んでしまったらケガをしてしまうことがあります。そうした場所で作業をする人たちの足を守るために、先芯や中底が鋼板でできているのが「安全靴」の特徴です。旦那さんや恋人、友達が工事現場や工場で働いている人は、“安全靴”と聞くと「つま先が堅い靴でしょ?」と思い浮かぶかもしれません。

安全靴が使われているのはなにも工事現場だけではありません。たとえば消防隊員や自衛隊、海上保安庁・特殊救難隊など、命の危険と背中合わせの人たちも安全靴を履いています。“海猿” も安全靴を日々履いているというワケです。

「もともとうちは草履屋だったんです。祖母の本家が山形で草履をつくっていたのですが、戦争から帰ってきた父親が、浅草の花川戸で草履を売り始めたのがそもそもの始まり。のちに母親と結婚して、ここ日本堤に会社を設立したんです。営業本社は日本堤、本社工場は今でも山形にあります」と、青木産業の2代目社長の青木稔さん。

2代目社長の青木稔さん。「家庭で仕事の話をしない」のが結婚した際に作ったルール。ブリティッシュロックやクラシックを聴くのが、リラックス方法

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「当時は靴を履いているのは上流社会の人だけで、庶民は草履を履いていました。戦後復興のまっただ中で、建築や工業が盛んになっていたため、つま先がむき出しの草履では危険だと、国が『安全面を考えて仕事をすべきだ』という啓蒙活動を行なっていたと言います。それで先代ともう1人の創始者が、鉄板をハンマーで叩いて、カマボコ状にしたものでつま先を覆ったり、下駄屋で買ってきた板を草履の裏に張り付けたりという工夫を施したのだそうです」

それでもまだ草履がベースだったため、「もっと足の周りをカバーできるものが欲しい」という声が途切れることはなかったと言います。

「先代はもと軍人ですから、靴づくりの専門知識はありません。さらに革は当時国の統制品で、政府の許可を取らないと手に入らないくらいの貴重品。そこで米軍の払い下げのテント(帆布)を買ってきて、足の周りを覆うような構造にしたんです。これが安全靴の原型になりました」

これが日本初・安全靴の元祖。牛革中底に鉄芯を組み込み、板を張り付け、ボルトで固定したもの。世界に一足「片方」しか残っていない

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「何もないところから、ものすごい“想像力”によって生み出されたんだということを、この靴を見ると感じます。もう一足しか残っていなくて、山形の工場にある社長室に飾ってあるんです。63年前のものですから、手に取ったら壊れてしまうんじゃないかというくらい古くて。会社が燃えてもこの靴だけは持ち出すくらいの、我が社の家宝ですね」

実は先代は、安全靴をどういったルートで販売していくかを考えずに「絶対に役立つはずだ!」という想いだけで、つくってしまったのだとか。その後、当時の通産省、労働省とつながりができ、持ち帰った米国製の安全靴を研究するなどして、安全靴づくりの技術を身に付けていったのです。

安全靴の概念を覆す、新デザインを2代目が開発

安全靴は、耐久性や滑りにくさ、制菌性、着火を防ぐための放電性など、それぞれの用途に応じた性能を備えています。プロ用のものなので、モノづくりに妥協は許されません。青木産業の安全靴は、厳しいJIS(日本工業規格)クリアしたもの。

「性能と耐久性は、他のアジア製のものと比べたら、軽自動車とベンツくらいの違いを実感できるはずです」

そんな青木さんでも「僕が入社したとき、履きたいデザインの靴がなかった」と振り返ります。

「『なんで安全靴は黒くて重くてごついんだ、そしてそれを履いて働かなくちゃいけないんだ』って思いましたね。私もまだ20代で若かったし、自分が履きたいと思える、軽くてかっこいい安全靴がつくりたいじゃないですか」

そこで考えたのがスニーカータイプの安全靴でした。青木さんは周囲の反対を押し切り、靴作りを学んだイギリスで、靴の金型を作ってもらうため渡英。

「ヨーロッパでは昔から足に神が宿るという言い伝えがあります。だから良い靴が生まれるんですよ」

デザインも自ら行い、プロトタイプが完成したのが1985年のことでした。

日本で最初のスニーカータイプ安全靴。既成概念を覆した画期的な商品として、安全靴の市場を拡大した

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「お客さんのところに持って行った感触はよかったので、発売にこぎつけましたが、最初はなかなか売れなくて。ところがある会社が、作業場に出入りしていた運送会社に『安全靴を履いていないとで入れはできない』と注意をしたところ、その運転手が履いていたのは、このスニーカータイプの安全靴だったんです」

このことをきっかけに口コミで広がり、生産能力を上回る注文が入るようになりました。今までとまったく異なるスタイルの安全靴の誕生でした。

「ただ、ただ自己満足ですよね。でもそれでないと面白くないですよ。モノづくりの世界は」

先代から受け継いだ、モノづくりに妥協をしないDNAが、青木さんにも受け継がれているのです。

安全靴に秘められた、それぞれのストリーリー

安全靴が生まれるときには、一つひとつストーリーがあるといいます。

「たとえばこの安全靴は阪神淡路大震災がきっかけで生まれました。当時まだ子どもが小さくて『万が一今地震などの災害が起こったら、今の安全靴では家族を守れない』と。それで、火に強く、ガラスを踏んでも安全で、避難生活が長くなっても疲れないものをつくったんです」

災害時、人命救助をする際に使用される、レスキュー性に優れた商品。阪神淡路大震災をきっかけに開発された

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アメリカンスタイルのカジュアルなデザインの中に高性能の技術が組み込まれている

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ツートンカラーの編み上げ靴。製造業や建築業、運輸業などに携わる人向けに造られている

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「たとえば料理をつくるときには、食べてもらう子どもや夫などの顔を思い描いて作ると思いますが、安全靴をつくるときもそうなんです。『こういう靴をつくったら、こんな人たちに履いてもらえる』と考える。使い手のことを思い浮かべるのとそうでないのとでは、つくる際の心構えがまったく違うものです」

息子さんの青木真澄さん。親子2代で青木産業を盛り立てている

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青木産業が販売しているのは、『なにがあっても大丈夫』という安全と安心感。だから、「ぼろぼろになるまで履きされて廃棄されるのが、靴にとっても私たちにとっても一番の喜びなんです」と青木さんは言います。

その身を粉にして、履く人の安全を守るのが「安全靴」の使命なんですね。テレビや街角で安全靴を見かけることがあったら、その靴に秘められたストーリーを、思い描いてみませんか?

【詳細情報】

■青木産業株式会社
住所:営業本社/東京都台東区日本堤1-37-8
電話:03-5603-8681
URL:http://www.ateneo.jp/